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核密約の時代背景 ニュース記事に関連したブログ

2010/03/09 19:22

 

[自民党安倍晋三元首相は9日、外務省の有識者委員会が日米間の「密約」を指摘した報告書を提出したことついて「いわゆる核の密約についての申し渡しは前任者(小泉純一郎元首相)からなかった」と述べ、首相在任期間中に密約の存在は知らされなかったとした。国会内で記者団の質問に答えた。

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記事本文の続き 鳩山政権が密約調査をしたことについては「当時は冷戦時代で指導者が日本を守るために判断した。秘密を暴露して、過去にそういう判断をした人たちを非難するのではなく、今後、日本の安全に資する形で考えていくべきだ」と述べた。]

 

 

核密約については、安倍元首相の発言に賛成だ。

 

「当時は冷戦時代で指導者が日本を守るために判断した。秘密を暴露して、過去にそういう判断をした人たちを非難するのではなく、今後、日本の安全に資する形で考えていくべきだ」と述べた。」

 

 その通りだと思う。

「当時は冷戦j時代」という歴史的な認識を立て、立派な見識だと思う。

 

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ニュースに対する新しい視点 ニュース記事に関連したブログ

2010/02/26 19:14

 

「作曲家のすぎやまこういち氏や評論家の西村幸祐氏ら保守系文化人5人が26日、都内で記者会見し、既存メディアの問題点を検証するインターネットのブログを中心としたポータルサイト「メディア・パトロール・ジャパン」(MPJ)を立ち上げると発表した。

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記事本文の続き MPJは、新聞やテレビなどが追い切れなかった情報や、さまざまな事象について異なる見方について掘り下げて掲載しているブログをサイトに集め、情報を集積していく。それによってネットユーザーにニュースに対する新しい視点を提供するという。

 また、サイト内にコラムのコーナーも設ける。コラムニストにはすぎやま、西村両氏に加え、ジャーナリストの櫻井よしこ氏や評論家の石平氏、独立総合研究所社長の青山繁晴氏ら10人を予定している。

 編集長の西村氏は「いい情報を共有するには、ブログを集積することが必要だと考えた。既存メディアと同じ土俵に乗ることが重要で、どちらが物事を的確に、客観的に伝えているかをユーザーに判断してもらう」と語った。MPJのサイトは27日夜に開設する。アドレスはhttp://mp-j.jp」

 

 

ほぉ、これはおもしろそうだ。

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うちの子に息のかかる所に来ないでくれ ニュース記事に関連したブログ

2010/02/24 05:57

 

自民党文部科学部会(義家弘介部会長)は23日ので会合で、北海道教職員組合による小林千代美民主党衆院議員側への違法献金事件を受けて、教員の政治活動に国家公務員と同様の罰則を付す教育公務員特例法改正案を今国会に提出する方針を決めた。

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記事本文の続き 教職員組合に収支報告の公開を義務付ける地方公務員法改正を検討することも確認した。」

 

 

日教組って、収支報告書の公開義務が無かったんですねぇ。

全面的に法改正に賛成です。

 

政治的活動をする訳の分からない教師たちが、私の息子や娘の近くに来て欲しくありません。

 

純粋である意味白紙の状態の子供たちへの、穢れを、忌避します。

 

教師は教師らしくあって欲しい。教師の仮面を被った醜く計算高い、神経質な、無教養な、理屈ばかり言い募る、そういう人たちに、繰り返しになりますが、ウチの子供たちのそばに寄らないで欲しいと、強く思います。

 

かてて加えて、「都教委によると、わいせつ事案で小中学生が被害者となるケースの約6割が勤務先の校内で発生。」 だ、と。

口をあんぐりと開ける、・・・ばかりでは済まない。

 

 

 

 

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中島みゆき 夜会の意味   1

2010/02/23 20:11

 

自分でも不思議なのだが、中島みゆきという人の歌や、それから、最近では、表現者としての彼女の考え方や生き方に、とても深い影響を与え続けられている。

 

 もう数ヶ月も前からだろうか、この人の歌やそして言葉に対する考え方などを、見たり、聴いたり、読んだりしている中で、いろいろな事を新たに学んでいる、といった具合だ。

 不肖、私、個人的に19歳当たりから、己を「ディヒター」(詩人)と自己認識してこのかた、約33年間、振り返る暇もなく走り続ける最中をも通して、自分なりに、一人でものを書き続けてきたが、そんな、言葉と文、歴史と物語、社会と生活、実感の自由とその普遍化、等々、諸々の事共と格闘してきて、驚いたことに、真淵や宣長、ハイデガーや小林秀雄、ドストエフスキーや空海、そして道元、などが、凡庸な私に問いかけ、敲いてきた、表現の意味、という領野で、中島みゆきという人が、既に、奔放で真率、大胆かつ繊細に、実作を以ってそれを生み続けている、という事を、思えば長い縁である彼女から、ここ数ヶ月位からだろうか、初めて知り、実は、驚いているのである。

 

 

   ことだま

 

 去年発売された中島みゆきのデータブック(中島みゆき読本 CDジャーナルムック  ㈱音楽出版社 )に、こすぎじゅんいち氏の「魔女伝説」や、それから、夜会の第一回目、五回目、十回目などに音楽ジャーナリストのインタヴューや、その他、いろいとな角度から、この人の今までの言行やデータなどが纏められていて、手にする機会があった。初めて読むものなども多くあり、興味深かった。

以下、この本に出ている彼女の発言や、その他、不十分ではあるが、今現在、僕が知る限りの狭い範囲の中で、自分なりに印象深かった事等を書いておきたいと思う。

 

『夜会』、中島みゆきさんに多少でも興味のある方なら、ご存知だと思うが、彼女は、1989年11月、つまり、彼女が前年の88年の11月にアルバム「グッバイガール」を発表した一年後だが、夜会という、「ことばの実験劇場」と銘打った、今までのコンサート形式と異なる演劇的な音楽空間の創造をスタートさせた。

 

自分が既に発表した曲でも、それが奏でられる状況や、大げさに言えば時代の背景などが異なった場合、聴く人の心にまるで異なった意味合いのある物として響くのではないか、そもそも自分がやりたい、或いはやっていると思っている所謂音楽活動というのは、顕在化されにくい潜在的な領域にある「ことだま」というものを追い求め、それを輝かせたいという、いわば、「うたのことば」をなんとか具現したいという事なので、夜会では、それをことばの実験劇場という風に表現してみた、といったような意味を彼女はいくつかの場面で話している。

この辺に関心のある方は、夜会5年目と10年目に、ニュース23で、筑紫哲也氏との対談形式ののインタヴューで分かり易く話しているので視聴されたい。

(→筑紫哲也インタヴュー  夜会5年   (41歳)
http://www.youtube.com/watch?v=34T9T5fHxEs&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=P9pY3cMXuuM&feature=related
筑紫哲也インタヴュー ’98 夜会10年  (46歳)
http://www.youtube.com/watch?v=RfmAD7w58X8&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=egcSdAWuHNE&NR=1  )

 

 ある人がこういうつもりで話した事と、ある人がこういうつもりで聴いた事とが、この「つもり」という心の熱や息遣いのなかで、そのままに出会う事が出来た時、そこに、ことだま、というものが生まれている。自分は、そのことだまというものを、歌のことばで、追い続けている、というような意味の事を、夜会5年目の筑紫氏との対談で話しているのだが、このスタンスは、恐らく、デヴュー以来今日までまったく変わっていないと、僕は勝手に思っている。

 

話は前後するが、夜会が始まる前に出たアルバムは上に言ったように、「グッバイガール」だが、このアルバムについて、「中島みゆき研究所」(→http://miyuki-lab.jp/disco/soft/al_16.shtml )では、次のようなコメントが記されている。ちょっと、ここに引用する。

 

『 プロデューサーに瀬尾一三を迎え、音楽的試行錯誤を続けたいわゆる“御乱心の時代”に終止符が打たれた記念すべきアルバム。B-3(は涙─Made in tears─ 前川清への提供曲。B-4(吹雪)は、北海道・泊原発建設反対運動をテーマにしたのではという説がある。アナログ盤としては最後のリリース(限定生産LP「わたしの子供になりなさい」は除く)。』

 

 と、ある。これは瀬尾一三氏と組み始めた最初のアルバムで、以後、瀬尾氏とは今日までの長い間柄となる。

 上の引用文でいう「ご乱心の時代」とは、試行錯誤の時代、という事だ。このアルバム以降、中島みゆきは新しい場面でその音楽活動を展開させる事になるが、夜会が始まったのは、先に言ったように、この翌年、1989年の11月。 

 

 

 

   歌物語

 

前置きは抜きにして、いきなり結論、というか、僕の言いたい事を勝手に書くと、中島みゆきという人は、曲としての作品と、それを受け入れる所謂演劇的な脚本といういわば設定状況との関係を、歌物語のような形で考えているのだと思う。歌物語というのは、ザックリと「歌物語の成立には諸説あるが、『万葉集』の「左注」や、『古今和歌集』などに見られるような、和歌の「詞書」に記された出来事との関係が指摘される。例えば『伊勢物語』は『古今和歌集』と重複する和歌を含むが、『古今集』の詞書を改変したと考えられる章段や、『古今集』において隣同士に配列された和歌同士で一つの物語を作ったと考えられる章段が確認できる。

このような歌物語は、次第にその詞書にあたった部分が長大化していくことにつながった。また、その歌物語の作品そのものが、『源氏物語』など後の作品に影響を与えたものも多い。『源氏物語』は「歌物語」とは言えない長大な作品であるが、『伊勢物語』の影響を色濃く受けており、その表現にも引き歌[2]のみならず、和歌の措辞を多く用いた作品である。」(Wikipedia  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E7%89%A9%E8%AA%9E )ということで、要は、歌(和歌)と、その和歌の出来たいきさつを説明したことば書き(詞書)とが同じ作品世界の中で並立もしくは重存している形態のものを指す。僕の言い方で言うと、状況的意味合いと生起した情緒そのもの、出来事と思い、とを、ひとつのものとして融合しようとする表現意思によって齎された意味感情の世界、ということになる。

 

 このような「意味感情の世界」として具体化した作品の特質とは、今在る現実を含んだ上での純粋なリアリティーを私たちの具体的な生活世界・日常世界の中に生きたものとして存在せしめる、という意味で、いわば、「より純粋な現実の創出」を志向している、という、独自の存在様態にある、と、僕は思っている。

みゆきさんは、そういうことを、夜会で実現したいと思ったのだろうし、また、それは十分果たされて今に至っている。

 

 今までの夜会の中で、それが最も純度の高いレベルで実現したのが、10回目の「海嘯」だった。

 この作品は、まず、夜会の始まる前に、「スタッフにちゃんとやりたいことを理解して貰うために、最初に小説を書いているんです。それを読んでもらってから、脚本を起こしました。で、最初の小説は一回捨てて、また最初から小説を書き始める訳ですけど・・・」(前掲書P96)と言っているが、一回捨ててから、脚本を書いて、それを舞台演出し、3幕もののその空間で歌われる歌は、21曲、その後、単行本となって出た海嘯という小説は、初めから終わりまで、詩的文章で綴られた、それ自体、独立した言語作品としても高いレベルでの完成度を実現している。「海嘯」はビデオでも独自に製作され、観る事が出来るが、それもまた、大変高い純度を持つ、優れた作品となっている。

 

 更に、これだけ重層的な演劇的状況を設定しておきながら、その状況の中で、彼女自身が歌うそれぞれの曲の迫力や迫真性には、非常に強い説得力があり、彼女のボーカルは脚本状況つまり演劇空間に引きづられる事無く、むしろ、それらを隈なく照らす射光のようであり、歌が劇的空間を引き上げ、まるで、字面のことばをより高次の意味空間の溢れへと昇華させるかのような、深い力を持っている。

 これら全体が意味することは、将に驚くべきことだと私は思うのだが、従来の芸術創造のジャンルでは類例を観ないものだと、言わなくてはならない。

 通常であれば、脚本家と役者を両立させること自体、大変難しい事であろう、彼女の場合は、かててくわえて、歌い人でもあり、その歌が、実は、全体の中心的な位置に留まり続け、感情意味の付与さえも行使しているのだから、いったい、彼女にとって歌とは何か、と考える時、比較検討するべき何ものかを、少なくとも、自分は探せないのである。

 

 

 

 

   コンテンポラリー

 

 

 夜会が始まる前年に、『音楽的試行錯誤を続けたいわゆる“御乱心の時代”に終止符が打たれた記念すべきアルバム』 、「グッバイガール」が発表されたことは先に書いたとおりだが、今ここで、虚心にこのアルバムから、次の二曲を聞いてみて欲しい。

 

十二月 http://www.youtube.com/watch?v=KSJ_xusbxi0

 

 辛辣過ぎるという事で、アルバムには載せられなかった二番の歌詞は、以下のとおり。

 

 「誰を責めるつもりもない
  誰に語るつもりもない
  横たわる口元は
  周到な愛を笑っている
  膝を抱えた掌は
  力尽きて凍えている
  開かれたアドレスには
  連絡先がひとつもない 」

 

 

吹雪 http://www.youtube.com/watch?v=YTQCqP4qbCw

 

 

 くどいようだが、このアルバムが出た年が、1988年。昭和63年、翌年が昭和64年つまり平成元年だ。つまり、所謂バブル景気の熱気溢れる時代の矢先である。

 

 出来れば、その時代背景をよく想像して聴いてみて欲しい。

 

 当時はまだバブルという言葉は新聞などには出ていなかった。平成元年の初期の頃辺りから、肯定的な意味で、バリアブル、流動性、過剰流動性という意味合いで用いられたりしたが、それは、空前の好景気称揚する文脈で使われていた。

 

 「吹雪」は、「中島みゆき研究所」のコメントでは、『北海道・泊原発建設反対運動をテーマにしたのではという説がある』と、あるが、僕は、ハッキリ、違う、と思う。

 

 歌詞の一節に、こうあるのは誰の耳にも聞こえる筈だ。

 

 どこにも残らぬ島なら

 名前は言えない

 

また、

 

 恐ろしいものの形を

 ノートに描いてみなさい

 そこに描けないものが

 君たちを殺すだろう

 

ともある。

 

 これは単なる原発の反対運動という狭い事柄を暗喩しているのではなく、日本の事を言っているのだ。

 

 過剰流動性が一種称揚的に新聞紙上を賑わせていたこの時期、いや、その前夜に、「吹雪」のような曲を発表しているという事実は、中島の類い稀な時代認識力の深さを物語っている。

 時代認識の深さ、というより、時代を観る自分自身の立ち位置の深さ、といった方がいいかも知れない。彼女は時代や時流を言い当てようとしたのではなく、自分がもともと立っている場所から、けれども、しかし、私はこう思う、と、率直に歌ったに過ぎない。その結果生まれ出てきた作品を、聴き手がどのように評するかは、また別の問題だ。

 

 ところで、中島みゆきが、種々なる歌を歌う中に、極めて辛辣な皮肉が響く事が、時折ある。ちょっと瞥見してみたい。

 

 例えば、「ローリング」の二番の出だし。

  出来れば、1993年10月21日発表のセルフカヴァーで聴いて欲しい。
 

 

 http://www.youtube.com/watch?v=8RrCdc3RuhI&feature=PlayList&p=3A0F0B46B52EDBA5&playnext=1&playnext_from=PL&index=32

 

 黒白(こくびゃく)写真は

 燃えるスクラムの街

 足並み揃えた幻たちの場面

 それを宝にするには

 あまり遅く生まれて

 夢の成れの果てが

 転ぶのばかりが見えた

 

この曲も、「吹雪」や「十二月」と同じ88年の発表である。

 

 

 話しが逸れそうなので、ここで急いで言っておくと、「吹雪」だが、このなかの歌詞の一説、 どこにも残らぬ島なら 名前は言えない」、は、「日本を指して歌われている」と書いた。

 

 中島は、「夜会」以前、所謂「ご乱心の時代」を経て、「歌」の所在の無さ、に既に当面しており、この年から、夜会において、「歌の棲家を自ら生み出す」ということを敢行した、と、自分は捉えているのだ、という事を、先ほどから言いたいのだ。

 

 そして、実は、中島という人が行ったこの種の冒険というものは、すべての優れた芸術家が当面する問題であり、それはどういう事かというと、その者にとって現実とは何かという究極の問いは、作品の創出によってのみ応答と実証を得るのだ、という事態が背景にある。

 

 セザンヌが山の絵を描く、彼にとって、その絵が完成したと思われるその時が、現実の誕生したその時であり、また、例えば、ロダンが地獄の門という大きな作品を完成させたとき、それは現実のなかにひとつの作品が存在し始めたという事ではなく、むしろ全く逆で、その「地獄の門」という「作品の中」にこそ、「諸々の既在の現実が存在を得る」事になった、ということで、中島みゆきは、夜会の中で、実はそういう事をしているのだ、というのが、僕の考えであり、直覚であり、ここ数ヶ月に渡り、学び続けている当体なのだ。

 既にそこにある現実的な時代の中に、歌というものの有り様が無い、存在する場所が無い、場合、歌の存立する現実を自分で作る他無いだろう。

 万葉集などの和歌というものたちが、やがてすぐに漢才の大波に晒されて、その為、上に言ったような形で、詞書が派生してきて、源氏に至り、和文となっていく、そういう日本の一定の時代の時間経過が表しているようなことと、実は同じ事が、創造する者・表現する人、の中で起こっている、という事が、つまりは、自分がいう「ディヒター」(詩人、芸術家)という人の特徴だと、そういうことを、僕は今、中島みゆきという人に託して、言いたい訳だ。

 

 将にそれを彼女は自覚的に行った、と言ったら、成る程、もしかしたらそれは言い過ぎかもしれない。彼女はそこまで具体的に物を考え、理論付けして、そしてさて、それをやってみた、ということではなく、結果としてそうなった、のかもしれない。

 しかし、いずれにしても同じ事だ。

 

 「歌」の存在する場所がここには無い、という、非常にリアルで深刻な状況認知無しに、「十二月」も「吹雪」も、生まれる必然性が無い。殊に「吹雪」では、それが明瞭に前面に出ている。いわばそれは、これから始まろうといしている、いや、既に始まっている時代に対する、明瞭な意識を踏み台とした、はっきりとした反対命題、極めて明確な、否定のメッセージなのだ。原発事故に反対するといったような、ちんけな政治表明的な歌など、いずれにしても中島という人は決して作らない。

 

 何も残らぬ島なら

 名前は言えない

 

というのは、繰り返しになるが、当時の日本の歴史状況を言っている。

 御乱心の時代を通して、彼女は歌の所在を求め続けたが、それは結局、今のここには無い、という結論を自分で認める他無かったという事態に直面し、それを目撃した、と言ってよい状況に、中島みゆきはいつのまにか入り込んでいたのだ。

 

 「グッバイガール」はそのような意味で、言葉通り、或るものへの決別、さよならの表明でもあるのだが、その決別の意味するところは、実は深刻なのである。

 

 大変深刻なのであり、ラディカルな事なのだが、しかし、ここで一層耳を澄ませて注意するべきは事がある、と、思う。

 彼女は、そのような深刻な「故郷喪失性」に当面しながらも、自分の立ち位置をを指して、敢えて、コンテンポラリー、日本語で言えば、流行歌というスタンスにあり、それが自分のアイデンティティーだ、とも言っている、という点だ。

 これはどういうことだろうか。

 

 ここで、少し理屈を言う。 

 

 コンテンポラリーを、流行歌と彼女は敢えて翻訳しているのだが、この語は本来、時間性という意味合があり、別にものをわざと難しく言うともりは自分には無いのだが、要するに迎合という意味を含まない、とだけは言っておきたい。

 流行歌と言いたいのだから、それは本人の言葉を尊重するべきではあろうが、もう少し広く、今風・現代風である様、と言う意味だ。

 そしてちなみに、コンテンポラリテートの原意は、哲学用語で、共時性、共同時間性ということで、ハイデガーなどは、「テンポラリテート」という事を言っており、これは単なる「時刻」「時間」と区別された、存在了解を含む上での時間性、砕けてた言い方でいえば、そこに今ある存在意味を了解した上での活きた時間性、ということで、社会や共同体を意味するコンという接頭語が付くことにより、歴史性という概念の広がりを得る事となる。

 中島みゆきの歌の歩みをじっと見ていると、意味合としては、彼女のアイデンティティーの正体とは、そのような意味であると私には思われ、恐らく、それは間違ってはいないと考えている。

 

 唯、彼女は、ハイデガーとか、時間性とか、歴史性とか、そのような難しい言葉遣いが好きではないだけだ。

まぁその、彼女は歌でしかいえない、と言っているので、こういう場合も、彼女自身の歌を聴くに若くはない。

 

 2003年には、彼女はそれをこんな風に歌っている。

 

 「思い出だけではつらすぎる」

http://www.youtube.com/watch?v=DTjJUy10R1E

 

難しいことばで

あなたの居場所を告げないで

探せないから

風のように距離を

雨のように時を

わからせて

呼び寄せて

 

 つまり、これが、彼女のいう、「歌のことば」であり、彼女のスタンスとアイデンティティーはここにある。

 コンテンポラリーというのが、私のスタンスであり、アイデンティティーだ、と言うのは、今目の前にある現実を、否定はしても、無視はしない、むしろ、それをあくまで受け入れる、例えそれが行ってはいけない非の道であったとしても、そこに生きた人間がおり、人間はすべて心を持っているなら、心を置いて他に歩きようが無いのだから、その道を自分も同じように歩き、歩きながら、自分自身の歌を歌い続ける、というのが、彼女の言葉の心だ。そして、歌の所在が現実に無いのなら、それを生み出す、自分はそれを敢行する、というのが、「グッバイガール」の決別の裏の意味だ。

 

 

 考えれば、哲学概念や文学概念、音楽理論や概念を、いくらアカデミックに巧んでも、それを読んで見て、何が伝わるというのだろう。 

 それらの学習行為は、いわば、技術習得の熱心ささえあれば、もしかしたら、誰にでも所有することは出来るのかもしれない。

 しかし、例えば、実際に彼女の、上に紹介させていただいた曲、・・・この曲の、一番最後の、約11秒程も長く叫ばれる声の響き・・・これは、いったい何だろう。

また、アルバム「10wing」に収められた曲、「泣かないでアマテラス」の、やはり最後の「アマテラーあス !」と、叫ぶ、その声の真摯で、悲壮とさえと言ってよいその真実の力は、いったいどこから来るのだろう・・・。

これも、出来れば、聴いて欲しい。

→ http://www.youtube.com/watch?v=puOjmB6rcjk

 

シンプルな曲調と、そしてシンプルなことば、・・・けれども、彼女の声の真率さは、直接魂に響いてくる。

 

  

 夜会の五年目から、書き下ろしの曲の割合が急激に増えてくる。夜会の中で初めて発表される歌の数々を、以後、私たちは見るだろう。

 

 

 

   注) 2 以降は、私的な事柄が多くなるばかりのようで、IZAにこのまま勝手にエントリーする事が、何となく憚られ、恥ずかしくもありますので、以後、拙ブログ「山桜」 →http://blog.goo.ne.jp/tousui-00 の方に、気ままに続けたいと思います。・・・そう、あくまでも、自由、勝手、気ままに。

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狩りの方法と目的について ニュース記事に関連したブログ

2010/02/19 19:46

 

もし自分が政治家で、党内である程度の期待される立場に居たとしたら、と、ありえない話を想像してみるが、その際に、仮に、鳩山邦夫が僕に擦り寄ってきて、やけに人懐っこい笑顔で、あなたが好きだ。政治家として期待している。私はあなたの子分になる。と、そんな事を言ってきたとすると、・・・自分だったら鳩山邦夫という奴は、多分警戒するだろうと思う。調子のいい奴だ、と心の中で思いながら、何が目当てだ、とじっと面に出さずに考え続ける事だろう。裏も取る。そして、試しにいくつかの踏み絵などを用意して、踏ませてみる。踏み絵というのは、あんたのお兄さんは民主党のリーダーだが、俺が総裁になった場合、俺はあんたの兄さんとそれから、小沢を葬りたいと思う事になると思う。その時、君は一人きりで鳩山家を絶縁し、俺についてくる事は出来ないだろう。もともと俺の事をそれ程知らないのに、何でこの時期に俺に擦り寄ってきたんだ ?  ということをちゃんと聴けるような踏み絵を、ちょっと考えてみる事だろう。

 いずれにしても、僕はこういうタイプは警戒する。だいたい、最後の方で、肝心なときに裏切るタイプだ。こういう奴を使いこなす程、僕は大きくないので、予め遠ざけるだろうと思う。

 

以前、麻生さんが総理目前だった頃、「安倍さんへの裏切り会合」とされた集まりが散会した折の、その映像がすっぱ抜かれて放映された時があった。あの時に、鳩山邦夫氏は、「何の集まりですか?」と、聞かれて、おおげさに、「そりゃぁ、何の会合って、麻生さんを総理にする会合だよ !」と、思い切り答える場面があった。定例の会だったのに。

 それを見た時から、僕はなんか、怪しいな、と感じていた。

多分、邦夫氏は、鳩山家のスパイなのだと思う。知恵を働かせているのは誰なのかは知らないが、小沢が田中角栄・金丸からの流れで中国と繋がっているように、鳩山兄弟は、ロシアと繋がっていると思う。唯それがメディアで流れないだけだ。鳩山家の内幕物が、詳しい小説にでもなれば、是非読みたい所だ。

 

鳩山首相の息子さんは、今、ロシアに留学中だと聞く。

 

この辺は将棋のような感じで、今国内政局であれこれしている不透明な部分を打ち砕くには、間接的にいくつかの方法がある。

 

203高地のように、いくら山を正面から人海戦術で攻めても、それだけでは駄目だ。軍艦からカノン砲を繰り出し、トーチカに撃ち込んだり、または、背後の補給路を立つ戦略を立てたりするのもいいだろう。

また、由紀夫と邦夫の兄弟を晒し者にする方法を、マスコミを利用して、考えるのも一興かもしれない。鳩山一郎氏以来の、この家の歴史の暗部を照らすのも、いい方法かもしれない。

それらと同時に、小沢、鳩山の二人に共通する、共産圏とのつながりの系譜を、じっくりと調査研究し、ひとつひとつ検証して、彼らの政治理念が、本来的な保守の源流から逸脱している様を確認しておくことも大事な点だと思う。

 

奔り回らせる手立てや切り口は、沢山ある。

 

どうせ追い落とすなら、もっと立体的にやるべきだ。

 

話はちょっと飛ぶようだが、過日、熊谷氏の「邂逅の森」という小説を読んだことがある。その最初の場面は、アオシカの狩の場面だった。それそれの役割を持ったマタギが予め逃走経路などに配置され、声をかける係りや、とどめを撃つ者などを決めておいて、脅し、奔らせ、命を絶つ。フィルムを逆回しにすると、恐らく、まるで予定調和のように仕留められていくアオシカの動きや表情が見える事だろう。が、実際は、そこには予定調和などはなく、巧みに仕組まれた、経験と実績による、狩の方法がある訳だ。

 

今、野党自民党民主党の二人を仕留めたいなら、もっと問題を明確に限定するべきだ。追い落としを、自民党キャンペーンにする必要は無い。この二人の政治生命を確実に絶つ、そして、確実にそれが果たされた後に、次の段階がある。新しい民主党体制と自民党で、この国に二大政党制を敷くのか、それとも、自民主導の大連立構想へと発展させるのか、あるいは、自民も民主も、主導政党とはならず、第三極を形成し、汎主体的政策決定の機運を醸成発露させるよう努めるのか。

 

僕の結論からいうと、日本には二大政党制というのは確立しないと思われる。日本という国は、支配と被支配、或いは、右か左か、といったように、明確に二つの階層に国民が分かれる事は無いと思うし、そもそもわが国の国家元首は、本来的に、首相ではなく、天皇陛下である。欧米各国に近代以降成立したガバナンスの方法論は、そのままの形ではわが国に受容する事は出来ないだろう。

民主主義にも、その形には様々なものがある。アメリカ英国だけが、民主主義という価値観を持っている訳ではないし、表現の形態はこの二つにのみ限定されるという訳であるまい。わが国にはわが国の文化伝統と知恵があり、それを無視して人の真似をする事で国が治まるという事は決して無いと、そう思うからだ。

 

二大政党制ではないとすると、では、大連立か。それも違う。なぜなら、主導する党がひとつであるような大連立は、常に、民主主義的な価値観と透明感が要請される民意の中では、結局常に、連立内の派閥抗争と化し、泥仕合で時間を消す始末となるからだ。

 

では、天皇親政を中核とした、八万の神々が集まり事を決定していく政体か ? どうしても意見がまとまらない場合は、天皇が聖断を下し、すべての国民がそれに従う・・・。これも、矢張り、いけないと思う。

天皇陛下は、日本人の過去未来を照らす私たち自身の心の善意であり、心のふるさとであり、うちなる光であるかもしれないが、具体的な政治利害や国際利害のどちらか一方に肩入れする絶対的な力であるという存在の仕方はされず、常に、一切の過去と一切の未来を照らし続ける、政治を超えたリアリティーの発現点であられる、と、私には思われる。今までの日本の歴史は、ずっとそのような姿で日々を織り成し、今日に至っている。絶対的なる不壊の権力であった事はない。天皇というものをそのように見做したのは、浅い歴史しか所有することが無かった、プラグマチックな算術で事を処理するほか無かったごく稚い国の恐れと無知でしかない。

 

こう、考えてくると、矢張り、しっかりとした、非自民、非民主の、新鮮で大変古い伝統の力を持った第三の政治勢力が、宿題となったまま残されている様々なわが国の問題の基底を照らしつつ、その他の政党の全てに自問自答を迫る政治状況が、好ましいと思う。

 

ものごとには本来の姿というものがある。

 

私たちの国と、そして私たち自身が、本来の姿に戻るべく、先ずは、そのような志向の視線の下に、狩は正しく行われなければならない。

 

 

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中島みゆきさん 歌の歩み 心の熱

2010/02/16 22:27

 

1988年、彼女はこんな歌を歌っている。

 

「十二月」 → http://www.youtube.com/watch?v=KSJ_xusbxi0

自殺する若い女が この月だけ急に増える
それぞれに男たち 急に正気に返るシーズン
大都会の薬屋では 睡眠薬が売り切れる
なけなしのテレビでは 家族たちが笑っている
  何万人の女たちが あたしはちがうと思いながら
  何万人の女たちと 同じと気がついてしまう月
 人の叫びも 鴃(もず)の叫びも
 風の叫びも 警笛(ふえ)の叫びも
 みんな似ている みんな似ている
 人恋しと泣け 十二月

飾り澄ました街なかを 赤い光が駆け抜ける
付き添いの誰もいない女たち 運ばれてゆく
  何万人の女たちが あたしはちがうと思いながら
  何万人の女たちと 同じと気がついてしまう月
 好きになるのも 信じきるのも
 待ちわびるのも 思い切るのも
 みんな自由だ みんな自由だ
 人恋しと泣け 十二月

  何万人の女たちが あたしはちがうと思いながら
  何万人の女たちと 同じと気がついてしまう月
 人の叫びも 鴃(もず)の叫びも
 風の叫びも 警笛(ふえ)の叫びも
 みんな似ている みんな似ている
 人恋しと泣け 十二月



「吹雪」 http://www.youtube.com/watch?v=YTQCqP4qbCw

日に日に強まる吹雪は なお強まるかもしれない
日に日に深まる暗闇  なお深まるかもしれない
日に日に打ち寄せる波が 岸辺を崩すように
    どこから来たかと訊くのは 年老いた者たち
    どこにも残らぬ島なら 名前は言えない

恐ろしいものの形を ノートに描いてみなさい
そこに描けないものが 君たちを殺すだろう
間引かれる子の目印 気付かれる場所にはない
    どこから来たかと訊くのは 年老いた者たち
    どこにも残らぬ島なら 名前は言えない

降り積もる白いものは 羽の形をしている
数えきれない数の   羽の形をしている
あまりにも多過ぎて やがて気にならなくなる
    どこから来たかと訊くのは 年老いた者たち
    どこにも残らぬ島なら 名前は言えない
    誰も言えない
    はじめから無かったことになるのだろう

疑うブームが過ぎて 楯突くブームが過ぎて
静かになる日が来たら 予定どおりに雪は降る
    どこから来たかと訊くのは 年老いた者たち
    何もない闇の上を 吹雪は吹くだろう



「ローリング」 http://www.youtube.com/watch?v=msoIQ3t2gNA
       1993年では歌い方がまるで違っている。
        →http://www.youtube.com/watch?v=8RrCdc3RuhI&feature=related

工事ランプの凍る路地をたどって
探しあぐねた たむろできる場所を
昨夜騒いだ店は 客を忘れて
一見相手の洒落た挨拶を配る
Rollin' Age 淋しさを
Rollin' Age 他人に言うな
軽く軽く傷ついてゆけ
Rollin' Age 笑いながら
Rollin' Age 荒野にいる
僕は僕は荒野にいる


黒白フィルムは 燃えるスクラムの街
足並揃えた幻たちの場面
それを宝にするには あまり遅く生まれて
夢のなれの果てが転ぶのばかりが見えた
Rollin' Age 淋しさを
Rollin' Age 他人に言うな
軽く軽く傷ついてゆけ
Rollin' Age 笑いながら
Rollin' Age 荒野にいる
僕は僕は荒野にいる


9桁の数字を 組み替えて並べ直す
淋しさの数と同じ イタズラ電話
ボックスを叩く街の風が冷たい
どうしても1つだけ押せない組がある
Rollin' Age 淋しさを
Rollin' Age 他人に言うな
軽く軽く傷ついてゆけ
Rollin' Age 笑いながら
Rollin' Age 荒野にいる
僕は僕は 荒野にいる
     荒野にいる


 93年というと、平成5年。敢え無くバブルがはじけ、日本中が不良債権でグーの音も出なかった、そんな時だった。
 中島は、バブル絶頂期には、この歌を、哀しく歌い、ドン底では、力強く、かっこよくパンチの効いた歌い方で、訴えかける。

 そういえば、88年には、こんな歌もあった。


 「ふらふら」http://www.youtube.com/watch?v=ngifxKs4ll4

 甘い酒を飲みすぎて 気がつけばどん底
おごり目当てのとりまきも ずらかってどん底
    ここは あの人の お気に入りの 隠れ家店
    まるで 犬みたいに 嗅ぎつけてやって来た
 ふらふら ふらふら あたいはふらふら のんだくれ
 ふらふら ふらふら あいつにふらふら のんだくれ

なにさ知らないふりをして 店じゅうがだんまり
誰かTELをかけたでしょ 来るなとあの人に
     背中 こづき合って
            気の弱いのが よこされるわ
     奴は 来ないよと 大きなお世話聞こえない
 ふらふら ふらふら あいつにふらふら のんだくれ
 ふらふら ふらふら しらふの言葉は 聞こえない

難しいこたァ 抜きにして ま、一杯どうです
それであいつは 何処なのさ ま、一杯どうです
     壁の 時計ばかりが
          やけに真面目に 働いてるじゃん
     あんたも 少し休んで こっち来なさい ほらほら
  ふらふら ふらふら あいつにふらふら のんだくれ
  ふらふら ふらふら あたいはふらふら のんだくれ
  ふらふら ふらふら 今夜もふらふら のんだくれ



「土用波」 http://www.youtube.com/watch?v=YSzxJVWwWJE
      この曲も、2004.11.17に発表されたアルバム「今の気持ち」のなかで歌いなおされている。聞き比べてみると面白い。
   下に紹介するのは、2005年のロスでのライブ映像。51歳。
 → http://www.youtube.com/watch?v=1an4XgUTBgo

昔の歌を聴きたくはない
あの日が二度と戻らないかぎり
なつかしい名前口ずさんでも
砂を崩して 土用波がゆく
  愛の重さを疑いながら
  愛に全てをさらわれてゆく
伝えそこねた言葉のように
雨をはらんで 土用波がゆく


あなたの髪から私の髪へと
流れ落ちる 土用波の音
溜め息まじりの潮風を泳ぐ
折れたカイトに見覚えはないか
  愛の重さを疑いながら
  愛に全てをさらわれてゆく
あなたの髪から私の髪へと
流れ落ちる 土用波の音


流れゆけ流れてしまえ立ち停まる者たちよ
流れゆけ流れてしまえ根こそぎの土用波

  愛の重さを疑いながら
  愛に全てをさらわれてゆく
伝えそこねた言葉のように
雨をはらんで 土用波がゆく



 彼女が36歳のこの年、つまり1988年が終わると、天皇が崩御され、平成の時代が始まる。そして世界は、冷戦の終結が、マルタ島で宣言された。
日本は将に所謂バブルのさなか、という、そういう時代背景だった。

 89年は、彼女が「夜会」を始めた年でもある。

 夜会11回目の、「ウィンターガーデン」で、彼女は、六花という曲を谷山浩子と歌う。
 この時の彼女の役柄は、犬。 

 
 「十二月」と、「吹雪」で示された、あの、絶望の雪はここで、どんな雪になっているのだろうか。

 

 「六花」http://www.youtube.com/watch?v=JOcDCYs62mk

広い空の中には 罪もけがれもある
広い空の中には 何もないわけじやない
広い空の上から さまよい降りて来る
泣いて泣いてこごえた 六つの花びらの花
六花の雪よ 降り積もれよ
白く白く ただ降り積もれよ
六花の雪よ 降り積もれよ
すべてを包んで 降り積もれよ


すさぶ大地の下で 花は眠っている
吹きつける北風の 子守歌聴いている
広い空の上では 手紙がつづられる
透きとおる便箋は 六つの花びらの花
六花の雪よ 降り積もれよ
白く白く ただ降り積もれよ
六花の雪よ 降り積もれよ
すべてを包んで 降り積もれよ

六花の雪よ 降り積もれよ
すべてを包んで 降り積もれよ


 この曲を夜会VOL11で発表した時、彼女は、48歳。翌年の9月にアルバムにも収めている。

 



去年の11月に発表された「DRAMA]から、一曲。

 「天鏡」 http://www.youtube.com/watch?v=HxF0v0SPfjk

その鏡に映るものは 隠しきれぬ愚かさと
その鏡に映るものは 拭いきれぬ悲しみと
その鏡に映るものは 失くしてから気が付く愛しさ

その鏡に映るものは 置き忘れた約束と
その鏡に映るものは 通り過ぎて気が付く誤ち

その鏡を手にすることを焦れ
戦を起こす 心を捨てる
手にする物は 砕け散る道標


その鏡に映るものは 隠しきれぬ愚かさと
その鏡に映るものは 拭いきれぬ悲しみと
その鏡に映るものは 失くしてから気が付く愛しさ

その鏡は 人の手には触れることの叶わぬもの
その鏡は 空の彼方 遥か彼方
涙を湛えた 瞳だ
人の手には触れることの叶わぬもの
その鏡は 空の彼方 遥か彼方
涙を湛えた 瞳だ



今年の今月、23日、彼女は58歳になる。

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【追悼 中川昭一先生】 平沼赳夫先生が中川先生について語る

2010/02/15 22:06

 

ユーチューブからのご紹介です。

まだご覧になっておられない方、ぜひ視聴してみて下さい。

 

→ http://www.youtube.com/watch?v=mQUtU8HIbaY&feature=related

 

→ http://www.youtube.com/watch?v=ARHe5IcuxbU&feature=channel   

 

 

中川昭一氏が亡くなる直前に、平沼さんと一時間ばかり話した事があり、その時のことについてなどを語っています。

 

 

また、急死される2週間前、最後のインタヴューがありました。

→ http://www.youtube.com/watch?v=eCHQw_khBoE&feature=related

 

 

中川さんの政治家としての実績を、平沼さんが語っています。

→ http://www.youtube.com/watch?v=l3cvLxieCL0&feature=related

 

 

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豚のようなすべての日本人たちに告ぐ

2010/02/13 04:05

 

豚のようなすべての日本人たちに告ぐ

この問いを解くがよい

 

存在は愛であり

愛は存在である

 

この背理を解くがよい

 

豚のようなすべての日本人に問う

お前たちは

いつ生まれたのか

お前たちは、

どこに生まれたのか

お前たちは、

いつ自分の死を持つのか

お前たちは、

何者なのか ?

 

豚のようなすべての日本人たちよ

応えよ

お前は誰なのか

お前は自分以外の誰か

それを今応えよ

言葉無しに

愛無しに

応えよ

 

豚のようなすべての日本人たちよ

お前たちに訊きたい事はまだ数多ある

沢山ある

お前が初めて嘘をついたのはいつか

お前が初めて言葉を発したのはいつか

お前が初めて美に打たれたのはいつか

知りはしまい

 

消えろ

消えろ

すべてのの豚のような日本人たちよ

お前がそこに居る意味はない

お前がそこで泣く資格はない

 

 

 

 

 

http://www.youtube.com/watch?v=RZ1AlKxwK9E&feature=related

海に絵を描く 中島みゆき

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出来事 ニュース記事に関連したブログ

2010/02/13 03:27

 

出来事はみなそのなかで実る
私たちはその広い沃野をこころと呼んでいる
こころは野や空や海や
風や雨や雪や
枝や草や虫や星
時には石ころやごみや
或いは思い出やビルや街や
そのほかあらゆるものと一緒に動いている
あらゆるものといつも一緒に動いているので
誰もその正体を摑めない
出来事はそのなかで生まれるとき
私たちがことばと呼んでいるものとして目覚める
ことばは歴史と呼ばれるもののなかで尚も生き続ける
だから誰も歴史を採集することができないでいる
たとえば
虹や風
たとえば
波や稲妻のように
そこにあると思った瞬間
姿を確実に変えている
私たち人間はそんな出来事の透明な連鎖の中心に立って
途方に暮れながら
でも
ことばを便りに道の無い道を歩いている
その道がどこで始まりどこで終わるのか
当たり前だが
そんな事は誰にも分からない
風が止んだり
或いはまた稲妻が突然天と地を結んだ時など
私たちは迷子になって泣く時がある
どんなことばも慰めにならないような
どんな名前の道も突然消えてしまったような
時間も空間も失われてしまったような不安と怖れが襲う
でも
たとえそんな時でも
大丈夫
ちゃんとみんな息をしている
雲の向こうの三日月も
山の向こうから昇る太陽
街が寝静まった丑三つ時に輝く星たちも
草の下で鳴く虫たちも
花も
果実も
冬の木々も
そして孤独の中で怖れるあなたのこころも
大丈夫
宇宙の音を聴いている
息をしている
出来事はみな実りのうちにある
 
 
 
  ♪
 
http://www.youtube.com/watch?v=EsJYNfo4-wE
みゆきさん
NOW
 

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中島みゆきさんのことだま

2010/02/10 19:24

 

中島みゆきさんの曲をすべて聞いた訳ではない。僕が彼女に、自分でもおかしいのではないかと思うほど、どんどん、どんどん好きに成っていってしまったのは、何故なんだろう。僕が持っているアルバムは、ごく大雑把な言い方だが、だいたい、グッバイガール以降のものが多い。初期の頃の歌は、実はあまり聴いていない。それは、自分がこの人を知った日は、確かに「世情」はとても衝撃的で印象の強いものだったが、まだ大変若く、従ってまだ人生の悲哀や、また、自然の雄大な美しさ、それにことばといものへの生きた感覚のようなもの、等は、とても希薄だったように思う。それに、20代前後からほぼ50になるまでの間というものは、いろいろな意味で忙しすぎた。

 

それから、今感じる事は、中島さんという人は、何となく、夜会を始めてから5年目位から、どんどん、歌唱力も、声の深さも、豊かになっていったように感じる。詳しく辿ってデータを取った訳じゃないので、なんとなくそんな感じがするし、多分それは当たっているだろうとも、勝手に思っている。

 

今、僕がどんな風に彼女の歌を聴いているかというと、歌手の或る歌、を聴いている、のではなく、ほぼ、完全に、中島みゆきさん、という人の、声を、聴いている。歌う彼女の声を聴いているだけで思わず涙が瞼を覆う時さえあるほどだ。自分はおかしいのではないのか、と思うと言ったのは、例えばそんな自分についてである。

 

何故なんだろう。

 

それは矢張り、原因は彼女という人の存在の確かさ、強さ、そして真実にあると思う。声も含めて、彼女の歌っている「姿」というものは、非常に澄んでいる。その澄んでいる、という姿は、静かで綺麗だ、というより、極めて激しく動く恒星の光が限りなく澄み切っているように見えたなら、そのような強い明澄さだ。祈りの中でも、射祷のような感じ。主よ我を哀れみたまえ、という祈りというより、ううむ、なんと言ったらよいか、なにかこう、パトス的なもの、それを感じる。

 

無論、そういう要素だけが彼女という人の特色というのではない。ロックナンバーなどでは、無条件にかっこいい、という所もある。

 

矢張り何度も同じ事を繰り返し言うことになるが、彼女には、真実というものがある。何故こう強く感じているにも関わらず、一向に言葉になってくれないのだろう。

 

デヴュー当時からずっと、中島みゆきと言えば、暗い歌、という名札のようなものが付いて回ったが、僕は当初からそんな風には感じなかった。自然に耳に入ってくるのとは違った形で、僕が聴いた最初の曲は「世情」だった。この時に直接強く響いた彼女、とは、非常に大人で、知的、そしてずぶとい魂の持ち主、社会的正義についての感覚が鋭く、そのくせどこかアンニュイな所もある、曲調でいえば、シャンソン、或いはディープなロック・・・そんな印象だった。ミステリアスな感じもあった。当時からよく思ったが、中島みゆきは暗い歌、という符牒は、ちゃんと彼女の歌を聴いていない証拠だと、そうは思っていた。

「この空を飛べたら」の詞、ああ、人は昔昔、鳥だったのかもしれないね、こんなにもこんなにも空が恋しい、という言葉も無論無条件に魅力的だが、曲、リズムやメロディー、展開の新鮮さといった所も群を抜いている、と、感じた。

 

詞は勿論すばらしいが、詞ばかりに目をつけるのはどうかとも思う。というのは、彼女の歌というのは、言葉と音、リズムやメロディーや新鮮な展開や飛躍、そして、声、それらが一体化して、或る何事かを、極めて真摯に、非常にありのままに、そのままに浮き出てくる、現れ出てくる、という点にこそ、この人の、表現者としての卓越性があると思うからだ。

 

彼女の魅力のもうひとつの側面は、彼女が大変多彩で、本人は自分の事をとろいと言ったり、才気煥発ではない、と言ったりするが、異なった性格や色合いを同時に持っているという所もあると思う。例えは、曲で言えば、「店の名はライフ」 「世情」 「時代」

「アザミ嬢のララバイ」・・・初期の頃の歌を並べただけでも、その表現性の自在さは驚くばかりだ。

 

 

彼女の声、という事を言った。「遺失物預かり所」という歌がある。(→ http://www.youtube.com/watch?v=jz29DVkeCxM )

この曲は、彼女という人が、歌い方は言い方、そして、言い方、というのは、単語や語句の奥にあることだまの仕草だ、という、この人の立っている始原をよく表していると思う。彼女の歌というのは、すべて、ことだまが歌っているのであり、言ってよければ、彼女はことだまに身を捧げた巫女のようなものだと言っていいかもしれない。身を捩り、心を砕き、耳ではなく、聞くその人のことだまが息づく魂に向かって、ただひたすらに歌っているのだ。彼女はそれを聴いてほしい、聞くだけではなく、魂でそのままに受け取って欲しいと、祈っている。その祈りは彼女にとって、自分の人生のすべてなのだと思う。そこに彼女の真実がある。真実らしい真実ではなく、信じられたいが為に信じるのでもなく、彼女は端的に信じているのであり、こころそのままの真実を歌っている。

 

例えば、彼女の祈りは、祈祷だと言った、「思い出だけではつらすぎる」の、一番最後の彼女の声。途中微かにリエゾンしてあがり9秒程も続く「U---~------を、聴くがよい。まるで駄々っ子のように、本当の愛はあなただけが持ってるんだぁ~~~!! という、この、Uーーー という、声。

彼女の声は、また時には、淡く繊細なディブラートだったり、息告ぐ音だったり、同じ歌詞をまるで異なったパワーで出したり、ほんの少し音の翻りが違ったり、(例えば、「風のすがた」http://www.youtube.com/watch?v=JMCvkH__uoE )

 とにかく、非常に表情性に溢れ、ダイナミックだ。

 

僕はいつしか、この人の声、この人のことだま、この人の魂や心と呼ばれるもの、そのものに魅せられてしまっているのかもしれない。・・・否、多分、そうに違いない。

 

人をこんな風に思う事ができたのは、生まれて初めてで、ずっと、不思議でならない。

 

 

 

 

     ☆

 

時代 ’75: http://www.youtube.com/watch?v=FGy0AsslIoc

(23歳)

時代 ’93:

(39歳)

 http://www.youtube.com/watch?v=LQ9cJ6NdTUE&feature=related

 

 

 

http://www.youtube.com/watch?v=wAhH6YFBEWQ&feature=related

 

十二天

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